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20日のエントリについて、id:mujinより批判trackbackが来たので、丁重に回答しようと思った。のだけど、残念ながらあんまり丁寧になった感じはしない。大して面白くない内容だから「続きを読む」にしてみる。簡単に言えば、僕はそんな派手な極論を書いたわけでもなんでもないのだという話で、それがワカッテイル人にとっては、別に読む価値は無い。
まず、後から言ってきて削除できれば著作権侵害にならないという、僕が一言も書いていない主張をもとに、ばれなければ複製しても良いのかという意味の無い例を引き合いにだして、あたかも僕が不合理な主張をしているかのようにミスリードしているが、そんなことは書いていない。僕が書いたのは、操作不可能性をキャッシュの要件とする立場を支持する人間にとって、特定団体からのクレーム(なぜ著作権侵害の申し立てだと決めつけているのだろうか?実際のクレーム事例は、ほとんどが名誉・信用毀損や営業秘密に関する不正競争防止法の規定に基づいていると思うのだが)を受けてデータを削除できるということが何を意味するか、という話である。
また2007年におけるwebの使われかたが妥当であることについて立証せよという。当たり前ではないようだ。当たり前だから、検索エンジン等を潜在的な訴訟リスクから保護する必要があるとして立法活動が行われているのである。この事実から目を背けているのではないか。僕が現在存在しているwebの使われかたを全て正当であると主張しているかのように書いているが、見当違いである。僕が書いたのは、ソーシャルブックマークがコンテンツキャッシュをもつこと、そしてそれに対する操作性に特別な意味を持たせることの論理的整合性であり、それを出発点とした「あるべき改正法」の姿を古い議論に依らずに行うべしとする主張であって、盲目的な現状追認ではない。
アップロードサービスについて公衆送信云々と書いているが、情報の複製(および公衆送信)を行っていることについて先の例におけるストレージ管理者とY!bookmarkで違いは無い。おそらく、著作権侵害に使用される可能性が相当にある、と書いた部分を読み落としている。
あと、殺人がどうのこうのとかいう例え話が持ち出されているが…当然ながら殺人を違法とするという規範的な決定には「ホッブスの罠の回避」(あるいは平和主義に関する囚人のジレンマでも良い)などの言葉で表される功利主義的な要請があるし、そんなことを言わなくても現在はほとんどの文明国においては自然法という盲目的な言葉で通用する。id:mujinにはそんな例え話が通用するという考えがあるようだが(逃げのつもりで書いたのかもしれないが、何しろ「…に、見えた」のだから、そのような思考がはたらいたということであろう)。
…まさか文理解釈を是としない=法を守らない、なんていう等式が成立していたりはしないだろうか。→wikipedia:法解釈。たとえば、中古販売されるゲームは法の規定する映画の著作物に該当しない、というのは縮小解釈である(と言うのだと僕は考える)。
法解釈の立場を決めるのは司法だけではない。国民による世論から妥当な法的解決の方向性が模索され、その決定に適合するように法律を運用するのが司法なのである。法律を守る(・守らない)というのは誰かが主張する条解を無批判に受け入れる(・受け入れない)ということではない。法解釈には常に妥当な適用を議論する幅がある、ということを前回書いたはずである。「法律を守る」の意味を勘違いしてはならない。
田村善之「著作権法概説」第2版に次のような例がある。
一般には、会社内での複製は、私的使用目的を欠くので、30条1項に該当しないと解されている。…しかし、たとえば、社長のために秘書が購入してきた英語の雑誌記事を翻訳する行為や、部署で購入済みの書籍につき遠方の会議に出席している部長からの問い合わせに答えるためにファックスで関連頁を送る行為…などに関してまで、著作権者の許諾を得なければならない、と解する必要はないであろう。
法律は常に文理解釈で適用されなければならないとする立場(これは全く通説的立場ではない)からは、これをどう解決できるだろうか。少なくとも、そのような行為は著作権侵害に当たるため許諾なしに行ってはならないという立場は、僕は切り捨てて良いと確信する。
以上から察するに、僕が本当に言いたかったことはたぶん何も伝わっていないのだろう。それは15%くらいは僕の不徳だが、同日エントリのコメントで補足しているつもりである。
プロパティ
propertyという言葉を聞くと、僕が最初に思い浮かぶのは(もちろんプログラミングタームにおけるそれは別として)所有権あるいは財産権という訳語だったのだが、その思い込みを晴らしたのは、代理母関係でちょっと言及した1以下の吉田邦彦「民法解釈と揺れ動く所有論」の記述だった:
なお、…用語法について念のため一言しておきたい。propertyを「財産権」と訳する(原文ママ)ことは、既に定着している(憲法二九条参照)が、若干注意が必要だからである。すなわち、この議論の源となっている英米の私法体系は、わが民法体系とは違っていて物権・債権の区別を知らず、従って、contractでもpropertyとして観念されて保護を受ける(債権(契約)侵害法理)。しかしそれにもかかわらず、propertyとして主に語られるのは、所有権を中心とする物権法及び賃貸借法であり、わが民法上言われる「財産法」ないし「財産権」とは、ニュアンスが異なることは押さえておいてよいであろう。
(P.535)
このような理解があると、たとえばローレンス・レッシグが著書「CODE」において、知的財産権についてliability ruleを適用すべしとしたことが、概念的に理解できる。補填ルールはpropertyの議論の射程内に、もとから存在していたということではないだろうか。
ちなみに(propertyとは全く関係のない話だが)、この章は森村進「財産権の理論」に対する批判的書評なのだが、森村の著作権不要論に関する言及も興味深い。
氏によれば、著作権とは過保護の権利であり、著作物の複製や二次的著作物を通じて(著作権法二一条、二八条)、人工的な排他的支配権を与えることは十分に正当化できず(自己所有権テーゼにおける「価値の創造」論及び帰結主義的インセンティブ論を考えうるが、十分ではないとする)、思想や情報は一旦自発的に公表されたならば、公共のものとなり自由に利用できると考えるべきだとされるのである(一六九-一七三頁)。かなり極端な立場だが、論点それ自体は明快である。私見との違いを一言するならば、私自身は著作権の人格的性格に鑑みて、先行創作者の利益 - それが、後行者の自由な利用とトレード・オフ関係にあることを認めつつも - に、もう少し配慮する(詳しくは、本書第九章参照)。しかしそれにしても現行法制度に問題があるとする氏の主張に魅かれるのは、近年の複製技術の発展ないしデジタル化に伴って、著作物の大衆化が進み、現行法上の排他的支配権は過度に強力なものとなり、事態適合的でなくなっており(現行法制定当時とは、コピーに関する状況が激変している)、従って創作者の利益を保護するにしても、対価徴収という形での別の制度設計が急務となっているからであろう。
(P.552-553, 強調は僕)
吉田当人はJames Boyleが批判するところのromantic authorship(あるいはwillian fisherが説く知的創作に向けての進取の精神)の確信的信者であることを自認しているそうで、従って上のようなコメントになるようだ。
Footnotes
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言及は少ないかもしれないが、そもそも同書にインスパイアされて書き始めたものだし、論点の列挙はほとんど模倣である。 ↩